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20世紀の詩(うた) 基本編

○19世紀末期から20世紀の半ばまでにかけての大衆論は、主に大衆の集合体としての特質・振る舞いなどを直感的に解釈することが中心で、 本格的に科学的研究がなされ体系化されたのは20世紀の後半からとなります。それまでの心理学や行動学は個人を扱うことの方が多く、群集(大衆)というものを扱う必要性が皆無でした。
○それは大衆が無価値だとか、権威がないからなどといった安直な理由ではありません。そもそも、目に見える“大衆”という巨視的な団塊を構成するための要素、それ自体が無かったのです。 視覚的に捉えることの出来るものといえばせいぜい“群衆”くらいのもので、今の大衆観とは質・量共に大きく異なります。
○そこにメディアと大量消費、及び民衆主義(民主主義ではない)が加わることで、始めて“大衆”が現実のものとなったのです。
○ここに記した「20世紀の詩」はあくまでも詩に過ぎず、科学的観点には立っていません。しかしながら、直感的解釈というものは後の社会心理学や行動学に少なからず貢献したという経緯もあります。 従って、基本編ではあくまで総体としての“大衆”について、いわゆる“リーダー不在の場合”の自然な大衆観に絞って記していくことにします。

▼ 特徴
  1. 大衆が衆愚なのではなく、
    衆愚のみが大衆を作り上げることが出来るのである。
    →当たり前の事ではありますが、「大衆は衆愚だ」と決め付けるのは偏見になります。 とは云うものの、衆愚しか大衆を構成し得ないというのは事実です。 これは「大衆」という言葉の定義に沿ったものなのですが・・・。
    (定義:階級・階層などの社会集団への帰属意識をもたない多数の人々から成る非組織的な集合体。by三省堂)
    →定義についての解釈ですが、多様な集団が集まっても多様なままならば、定義上“大衆”にはなりません。 しかし、集合体になってしまえばそれは紛れも無く“大衆”と化します。 集合体なのに中身はバラバラなので、全体主義のような総体としての目的や志向性はありません。 そう云うと聞こえは良いですが・・・。もちろんこれは“リーダーが居ない場合”に限定した話です。


  2. 大衆は簡潔な、しかも端的で直感的な言葉を好む。
    しかし、大衆の語る言葉は長い。
    →この「長い」というのは無意味に長いだけで、 研究意欲や探究心があるなどといった肯定的なものとは一切関係ありません。 無論、これは大衆が単純だとかそういった事を云いたいのではなく、直感性に劣るという事を表しているだけです。 客観性より直感性に劣る方が大衆化し易いというのは、科学的実験によっても立証されています。

  3. 無関心、無気力などと称される大衆も、メディア一つで豹変する。
    →この「メディア」の定義もまた曲者です。 これには新聞、ラジオ、テレビ、記録ディスクなどの配信メディアから、 電話、FAX、インターネットなどの双方向メディアにまで幅広く適用されます(口コミは除く)。 書籍(聖書)の印刷技術が誕生して以来、新聞の普及から現在のデジタル通信技術に至るまで、大衆にとっていかにメディアが重要なものであるのかはご周知の通りです。 一応断っておきますが、ここでいう重要とは“必須”のことであり、いわゆる「テレビが無いと死ぬ」というアレです。 どんなかたちであれ、そういった大衆は遅かれ早かれ何らかのモノには扇動されてしまいます。

  4. 大衆とは、自らは決して大衆だとは思わない。
    自分を大衆の一部と考える者ほどキワモノだったりする。
    自覚する大衆は誰一人として居ないし、自覚した時点でもはや大衆ではない。
    →「だったりする」という曖昧な表現にしたのは、 堕落しているものを除外するためであり、キワモノというのはあくまで少数派です。 ちなみにこれは“無知の知”などといったレベルから考えると非常に不毛な哲学です。 しかし、自覚が無いという点では同じようなものです。当然ですが、 無知を自覚する大衆は誰一人として居ませんし、自覚した時点でもはや大衆ではありません。

▼ 動向
  1. 主義・主張、或いは派閥とは、詰まる所、扇動のためのスローガンに過ぎない。
    仮にもし意図していなかったとしても、大衆は与り知らぬところで扇動されている。
    →意図的な大衆操作はこの際どうでもいいのですが、 大きな問題となるのは予期せぬ大衆行動です。これを統制する役割は、国家、企業、各種団体、カリスマ的指導者などが負わされます。 扇動は計画的に、責任をもってやるべきです。

  2. 大衆に受け売りという言葉は必要ない。
    →全部受け売りなので区別する必要はありません。

  3. 大衆とは、そこに留まり、抜け出せない人種である。
    抜け出すと(社会的に)死ぬので、大衆は単体では存在し得ない。
    →全体の流れから少し外れると、自然と流動を維持しようとする力が働きます。 これは自他ともに戻ろう、引き込もうとする本能に因るものなので、抵抗はありません。 また、「社会的に死ぬ」というのは大衆社会的に死ぬのであって、その後また別の大衆グループに入信するのか、 一般の人になるのかは分かりません。もちろん資質があったからこそ大衆だった訳で・・・。

  4. 大衆は自己を中心に据え、
    自分よりも他者や周囲の変革を渇望する。
    →この事は、現実を見ればよく分かります。また、変化ではなく変革でなければなりません。 穏健でない新興宗教団体、各種市民団体、後に指摘しますが“大衆が運営する”マスコミなどが該当します。 ですが、これらはほんの小手先であり、問題の本質はもっと身近にあります。
    →大衆操作や統制法ばかりがもてはやされる大衆論ですが、 大衆の存在自体の問題という点はよく指摘されます。いわゆる浄化の必要性です。 衆愚政治は過去の、しかもごく限られた地域での出来事ですが、民衆主義は現在、地球上の大勢を占めるまでに至っています。 大衆論者は使うことや管理ばかりを追求しますが、 これがある意味ではゼロサムゲームであるという事も肝に銘じておかなければなりません。


  5. 個人の力ではなく数の力で変えたがる傾向にあるのは、
    一人で責任を負いたくないからである。

  6. 連帯責任の大義名分の下、大衆の中の各個体は一切の責任を負わず、
    結果として大衆全体も責任を負うことはない。
    そこで、大衆の中の一個人に全責任が覆いかぶさり、粛清がなされる。
    まだ代わりは幾らでもいる。
    →これは実験的にも確かめられました。 ところが、実験では大衆と一般人が混在した状態、つまり現実に存在する組織などに近い再現だったので、 最終的には誰かが進んで責任(詳しくは書きませんが、この再現実験の場合は行動)をとるという形になります。 しかし、これが大衆だけ抽出したものだったとしたどうなるでしょうか。もちろん大衆というのは曖昧な存在なので、 意図的に集めるのは至難の業です(いくら厳選しても、一般の人が幾分か紛れ込んでしまうことを防げない)。 つまり、ここでいう全責任を着せられる一個人というのは、概ね大衆ではない場合が多いということだけは留意しておいてください。

  7. 大衆の自由には責任が伴わないのではなく、
    責任をとらないだけである。
    →そもそも責任感という感覚を持ち合わせていないのに、 それを要求するのは酷というものです。

  8. 大衆は数の力に弱い。多数決こそ正義である。
    だから、正義の側につく。大衆とは正義である。
    だから、“大衆”という一つの塊と見なしてよい。
    →「悪」を名乗るタイプの場合、何故か少し統制されています。 正義を名乗ったり、正論と妄信していたりするタイプは逆に何でもやって良いと勘違いしていたりするので、 特に性質が悪いです。ちなみにこれは、大衆が単体として粗視化できるという事を逆説的に表しているだけです。

▼ 力量
  1. 大衆は、確かに一つの塊としては最大規模の人種だが、全人類の1〜2割程度の集団に過ぎない。
    しかし、あまり馬鹿にならない数であることも確かだ。
    →厳密にはもっと多いのですが、はっきりと差別化できるのは1、2割というのが妥当でしょう。 これは、比率だけでなく絶対数としても相当なものです。具体的には、人類史上最大です。

  2. 少数派でも、集まれば大衆となり得る。
    ところが、大衆の中にある違いは見分けがつかない。
    つまりそこへ含まれた時点で、その中の一番低いレヴェルにまで堕ちてしまうのである。
    →例えば対立している“派閥”同士などは、両方を含めて大衆と見なすことができます。 これは好敵手同士(同志)などといった明確な対立ではないからです。 また、大衆内の抗争はその一番低いレベルにまで合わせないと成立しないので、低俗化が進行します。 低俗なもので張り合うといった行為が横行するのも、大衆たる所以です。

  3. 大衆は絶対数の増加に伴って、一人一人の価値が低下する。
    そして絶対数の増加による責任の拡散に甘んじる。
    →生物学的には絶対数が増加しても、能力は変化しません。 ところが、大衆社会心理学上では細分化(専門化ではない)によって一個体の能力が低下してしまいます。 しかし、これだけでは価値の低下にまでは至りません。責任放棄という能力よりも精神的な問題こそが、相対的に一個体の価値を低下させているのです。

  4. 一個人が出来る事が増えた分だけ、
    責任感を失っているのが、即ち大衆である。

  5. 玉石混在。
    一見すると凡人だらけの世界でも、隠れた天才は数多く存在する。
    凡人は賢明に働き、天才は発想力でそれを大きく助ける。
    大衆はその足枷となる。
    →大衆論では大衆の存在自体を肯定的に認めていますが、確かに一般社会にとっての大衆社会とは害悪以外の何者でもありません。 (リーダーが居ない場合)生産力には貢献しない、文化は生み出さない、何の利益ももたらさないとなれば、 穀潰しという大衆観もあながち嘘ではありません。再三断っていますが、もちろんこれは“指導者不在の場合”に限ります。通常、リーダーは存在します。

▼ 本質
  1. 大衆性とは、全体に内在する腐敗的要素である。
    それは個人のレヴェルを問わず、誰にでも等しく内在する。
    だから学者にも廃人にも、他称でエリートだろうと大衆性は存在する。
    その度合いに、個人差はほとんどない。

  2. 大衆性が大衆として具現化するのは、その行動としてのみである。
    克己に励む人間は通常の人となり、他者を貶めるモノが大衆となる。
    “普通”の定義とは、即ち大衆ではないことである。
    →つまり、誰にでも大衆となる素質はあり、 誰でも大衆になる訳ではない、という事です。科学的に考えれば当たり前の事ですが・・・。

  3. 自発的に洗脳されていく信者と、他力本願に扇動されている大衆。
    信者は純粋であり、また危険でもある。
    大衆は醜悪で、出来れば関わりあいたくないものである。
    →まともな感性を持っていれば、 大衆というのは耐え難き存在です。しかし、身近に散在しているのが現実なのです。

  4. 大衆の中の一人を、果たして個人と呼んでいいのだろうか?
    素人の私には、外見以上に中身の区別が出来ない。

  5. 大衆は、外見より内面だ、と言う。
    またその一方で、外見の違いを個性と言う。
    だが、そのこと自体はどうでもよい。
    重要なのは、何にどうやって煽られたのか、を見抜く洞察力である。
    そもそもこれは大衆の意見ではなく、
    大衆の向こうにいる指導者が蒔いた種に過ぎない。
    →ようやく、“リーダーの居る”具体的に扇動された大衆のことなのですが、 この場合は非常に曖昧です。顔が見えないというよりもむしろ、“指導者”の存在があやふやなのです。 これはマスコミ扇動などによく見られ、マスコミ自身も明確に扇動する意思が在ったとは限りません。 マスコミ統制における問題点の一つです。

  6. 先人の残した言葉には、真理をついたものもあるが、偏見に満ちたものもまた数多い。
    そのもっともたる例が、男性論女性論である。
    無論、それらが男女それぞれの全体を指すわけがなく、
    特にネガティブなものは大衆ぐらいにしか該当しない。
    だが、それらは今日まで生き長らえてきた。
    それらを生かしてきたのは大衆自身である。
    →生かしてきたのには3重の理由があるのですが、ここではあえて語りません。 性差の能力相違点は遺伝的なものなので、説明は割愛させて頂きます。

  7. 新聞・キー局・ケーブルテレビ…
    色々なメディアを見て色々な意見を取り入れれば、
    扇動されていないと考えるのが大衆である。
    実際、色々なものに煽られている方が性質が悪い。
    →“情報配信企業”から何故か「意見」を取り入れるという感性は理解し難いものですが、 大衆心理としては「意見」を求めようとする本能の方が強く働いてしまうようです。社会心理学的には、 他の大衆も求めているだろうという事を本能的に察知し(斉一性への欲求)、一体感まで生み出してしまいます。 更に問題となるのは、意図せぬ扇動です。これは各々の“扇動”が大衆という団塊の中で混沌さを増したもので、未だかつて良い結果をもたらしたことはありません。

  8. 大衆はメディアなどのカリスマ支配から解放されると、不安になる。自由への恐怖である。
    正確には自由に伴う責任への恐怖である。
    次の支配者はメディアとは限らないが、
    身近であり、かつ責任を押し付けやすいという点でも可能性が高い。
    また、何になるかは偶然に因るところが大きいが、以前の支配とあまり変わりない。

▼ 追記
  1. マスメディアは本来的なシェアが判断しにくく、また経営の見えにくい特殊な企業である。
    しかし、第四の権力を握っている。
    →第四の権力を握っていること、大衆扇動の要であること、情報操作を行っていることなどに関しては、 全く問題ありません。しかし、・・・。

  2. 世界各地でしばしば発生する“団塊”と呼ばれる世代たちは、“大衆”なのではない。
    全体の絶対数が多いがために、相対的に大衆の絶対数が多いだけなのである。
    決して、大衆の比率が著しく高いわけではない。

  3. 大衆は敵ではない。
    だが、道具には事足りない。
    →よく駒や歯車などといった表現がありますが、大衆では主力としての役割を果たせません。 補助的に使うことはあっても、道具になるほど使えるものでもないのです。つまり、駒や歯車などというのは何だかんだ云っても重要な部品なのです。

→NEXT(経験編)

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