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20世紀の詩(うた) 経験編

○大衆社会は20世紀後半に至り、大きく変容を遂げました。 20世紀前半の教訓を基に、リーダーシップやマスコミ事業の重要性についても再認識され、 大衆を扱った社会心理学や行動学・犯罪心理学等も大いに発展しました。
○20世紀後半において特徴的なのは、“群衆”よりも大衆にウェイトが置かれるようになったことです。 これは通信技術の発達などによって、一般に大衆社会と呼ばれる一種の仮想空間(世界)が構築され、それに伴い群衆も大衆現象の一部に過ぎなくなったためです。 かつては大衆という一つの部類に過ぎなかった人種が、一つの巨大な社会を形成するにまで至ったわけです。
○もちろん過去にも、新聞王などといった労働者を煽っていた時代も確かにありました。 しかし、これは“群衆”を作る事が目的でしたし、少なくとも世論形成という意図は軽視されていました。 更に、今と違って“情報”を求めていた時代であり、大衆は“意見”など求めていません。 当時問題にされたのは、“情報”それ自体の真偽そのものであり、無思慮にまでは至らなかったのです。 無思慮は、マルチメディアが“大衆の情報処理能力”を超えた、つまり情報過多になってしまった時、始めて起こり得るのです。
○ここでは経験編と銘打っている通り、大衆の本質を扱った基本編に対して、 現実やメディア(即ち仮想世界)などの具体的な事象についてを記していきたいと思います。


▼ 性格・人格
  1. 大衆は絶対に自分が間違っているとは思わないが、
    責任は自分以外に着せている。
    →これは大衆なりの責任の取り方、らしいです・・・。 実際には、マスメディア(新聞社・キー局・情報配信サイトなど)や、 それらを基盤とした指導者やマスコミ伝道師などが標的と成る事が多いようです。 俗に責任転嫁と呼ばれます。

  2. 大衆は日常的に思想や考えが二転三転するが、自分の考えは持たない。
    大衆の持つ唯一の個性は、欲望だけである。
    →欲望の度合いが強過ぎると、固定観念などが生じてしまいます。 定着すると柵(しがらみ)となり、それが見かけ上の個性となります。しかし、それすらも元来的には自分の考えではありません。 結局、先入観の強い大衆も、流動的(追従的)な大衆も、全く同質の人種なのです。

  3. 大衆は既成概念に囚われがちだと思われているが、
    実際それは概念と呼べるほど高度なものではない。
    →これは、大衆は単純なスローガンにしか従わないという事です。 重視すべきなのは、それがもっともらしいか、理路整然としているかなどではなく、 いかに大衆心理に訴えかけられるか、という事なのです。よって、難しい事を持ち出すなどというのは論外です。

  4. 大衆は、メディアによってはその意見を信じることが出来ると考えている。
    大衆は、意見を信じるか信じないかの二者択一で、自分の意見は持たない。

  5. 大衆は、メディアが意見を提示してくれるところだと確信し、かつそれを求めている。
    だが問題なのは、メディアが意図しないところですら扇動されているという現実である。

  6. 大衆に対して指導者が不在の場合、その行動は多数決ではなく、全てが惰性で進行する。
    それは普段から警戒されているどんな指導者よりも、遥かに脅威となり得る。
    →大衆社会においての最大の問題、それは暴徒化です。 それまでマスコミや各権力機関が曲がりなりにも統制していたモラルが少しでも崩れると、 自制のきかない大衆は予測不可能な行動を引き起こします。ここでいう暴徒化とは、 群衆に限ったものではありません。一応のところは乱発的な大衆行動、又は多岐に渡る一次的・二次的被害などが考えられますが、 大衆社会は外部の世情と緊密な相関関係にあるため、本当に何が起こるか分かりません。

  7. 大衆はマスメディアというバックボーンさえあれば、たとえ一個体でも大衆行動に出ることがある。
    ここで重要となるのは、実数ではなく、数が多いという“イメージ(思い込み)”である。
    →これは現在の大衆を支えている基本理念でもあります。 “報道のカーテン”の主力は報道規制や偏向などではなく、この多数派工作もどきのイメージ操作なのです。 このイメージを以って、ようやく(大衆の)扇動が可能となります。 そして、とりあえずの既成事実さえ作ってしまえば囲い込みも容易です。

  8. 大衆は、知らないものほど嫌悪するという一種の潜在意識がある。
    (ここでは、メディアがどういうものかを示していないものに限る)
    知らないものが強い力や結果を示したとき、不安は頂点に達する。
    その瞬間こそが、もっとも扇動し易いタイミングである。
    →嫌悪感を煽るだけとは限りません。 時には反動を利用することも必要なのです。

  9. あまり表面化はし難いが、大衆には創造への否定心理がある。
    →懐古主義とは関係ありません。 また、これは大衆心理のベースなだけで、煽りようによってはこの限りではありません。 但し、慣性誘導(それまでの流れに拍車をかけること)に逆ってもメリットはあまりないです。 余談ですが、出る杭を打つのは指導者ではなく、この大衆心理に基いた大衆自身なのです。

▼ 思考パターン
  1. 科学を理解するほど、それ自体に疑問を持つ。
    その事が科学の発展の原動力となってきた。
    万能だと考えるのは大衆だけである。
    だから大衆は科学の恩恵を受けるだけで、資源の浪費にしかならない。

  2. 理解しようともしない者が信じる科学など、結局のところ大衆にとっての“常識”に過ぎない。
    大衆は科学万能に踊らされ、“常識”を振り回す。
    だが、大衆の“常識”とは、一般人のそれとはまた違う。
    だからといって、科学者の常識が完璧という意味ではない。
    →“大衆にとっての科学”とは漠然と、そして神秘的なものでなければなりません。 複雑怪奇な印象を与えてしまうと、“デリケートな”大衆は畏怖してしまうのです。 もちろん科学者にも大衆は居ますが、大衆論においては“識者”として差別化を図っています。
    (科学者の定義:専門に科学(特に自然科学)を研究する人。by三省堂)
    (識者の定義:物事に対して正しい判断をくだす力のある人。学識・見識のある人。by三省堂)


▼ 大衆戦争論
  1. よく銃後ばかりが問われるが、前線にもくだらない人間は居る。
    →現在、現実問題として多くの国が徴兵制を敷き、 志願兵や民兵を広く募っています。もちろん職業軍人にも大衆は居ますが、 しかし近年の戦争及び内戦を見る限りでは、兵員数を単に増強したがために 戦争自体が大衆化してしまったと云わざるを得ません。これは第一次世界大戦ごろから顕著になった問題で、 第二次大戦で更に大きな問題となります。そしてそれ以降も幾度と無く繰り返されてきた戦争では、一般には伏せられているものの、 戦闘の枠外において“くだらない大衆”は残虐非道な行為を繰り広げているというのが現状なのです。

  2. 厭戦状態とは、一般人の日常生活を取り戻したいという元来的な願望と、
    大衆がいい加減戦争に飽きてきた状態を指す。
    →過去の記録によると、概ね2年以上続くと飽きられます。

  3. 大衆は、今の状況を嫌だと感じれば戦争を望み、
    保守的になれば反戦平和を唱える両極端な人種である。
    とにかく戦争でしか物事を考えられないのが、大衆たる所以である。
    →大衆は現状への不満を、 全体を道連れに打破(破壊)するのであれば構わないと考えます。 しかし、現状に満足しているのであれば他者の犠牲などに興味は湧きませんから、 反動的に反戦平和となります。この単純な論理は、従来のテレビ管制時代には下火だったものの、 インターネットの普及などとともに顕著になりました。 実際には終末思想や民族主義など様々な形態をとりますが、本質は同じです。

  4. 大衆は難しいことを嫌う。よって小理屈など通用しない。
    だからどんな時代でも、平時におけるスポーツは重要な地位を占める。
    →ここで云うスポーツとは単純明快さよりも、 明確に勝敗を決する事自体に意味があります。もちろんこれは大衆にとってのスポーツであって、 一般の観点ではありません。しかしながら、 現実にスポーツが政治利用されている点は無視できません。

▼ 必要悪
  1. 大衆を統制する以外の事において、果たして悪が必要であろうか。
    →これは極論です。しかし大衆は“正義”でも“悪”でも無く、 第三者の“神”になることを最も好み、かつ自分たちが物事の良し悪しを決めている“つもり”になり、 そして自分たち(大衆)のみがその権利を有するのだと信じて疑いません。 最終的に大衆は(大衆にとって)正義の側に付き、大体結果の見えている出来レースに興じます。 これ以外にも「悪」と称されるものは存在するやも知れませんが、少なくとも大衆にとって「悪」とは必要不可欠な存在です。
    →もうひとつの意味として、物理的な統制をもたらすことで結果的に「悪」と称されているものもあります。 つまり大衆を直接統制している“悪”です。一般人から云わせればあるべくしてあるような存在ですが、大衆にとっては「悪」以外の何者でもありません。 マスコミがその対象となることも少なくありませんが、この場合共食いとなります・・・。


  2. 正義や悪と呼ばれる者たちは、得てして純粋な白や黒を意味する。
    →この場合は、大衆出身であってはなりません。

  3. 現実に争っている場合には正義や悪は存在しないので、
    混沌とした衆愚状態と、泥沼の争いが延々と続く。
    純粋な悪ではないところが、また厄介である。
    →争いを好み、そしてそれを起こし得るのは大衆なので、 現実の争いは醜いものとなってしまいます。対大衆の掃討や殲滅、いわゆる駆除は争いではないのでここには含まれませんが、 大衆と関わる時点であまり綺麗なものでもありません。

  4. 大衆にとっての悪とは、自分に都合の悪いもの全てである。
    直接関係無いものの善悪は、マスコミが決める。

  5. 悪を滅ぼすことは、結果的に大衆を増長させることに繋がる。
    悪を滅ぼしても、世界は一向に良くならない。
    →一応ここでは便宜上「悪」としてはいますが、それが社会に害悪を及ぼす根源であるかといえば、 必ずしもそうとは限りません。

▼ 追記
  1. もし世界中全ての人間が善人だとしたら、
    たった一握りの人間に、
    こんなにも簡単に扇動されることなど有り得ないだろう。
    →もし世界中全ての人間が大衆だったら滅んでます。 つまり、世の中捨てたもんじゃないのです。

→NEXT(実践編)

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